蕎麦好きの独り言(2015.09.11up)

その弐参「油断大敵」


満開の蕎麦の花

この度の水害におきまして被災された皆様方に心よりお見舞い申し上げます。早期の復旧を切に願うばかりです。

9月に入りまして暑さも何処へやら、八月末に播種された蕎麦が一斉に花開き、それはそれは見事なお花畑と相成ります。いやあ、蕎麦の清楚で可憐な純白の花は良いですね。心が洗われる気が致しまする。個人的に白い花が大好きであります。山でもそれは同じでありまして、チングルマやイチゲの群落を目の前にすると、暫く身動きできない感動がありまする。小振りのヒナザクラなんてのにも目がありません。反対に黄色の花というのは総じてあまり得意ではございません。山吹色なんてのはもっと得意でありませんね…



刈取間際のぷち山吹色


さてさて我が家の田んぼの稲も大分色づいて参りました。黄金色、なんて良い響なのでしょう。読んで字のごとく黄金のように価値のあるものだったんでしょうね。昔は…
こちらについても山吹色と表現なさる方もいらっしゃいますが、花ではありませんからそんなに気にはなりません…(笑)
稲を刈る前にもう一仕事、最後の草刈りが残っております。
先日の台風の影響で強風が二晩続けて吹きまくりまして、あちこちの稲も結構痛みましたが我が家のは何とか持ちこたえました。

先日知人と久しぶりに温泉で一緒になって話しましたら、彼の田んぼの何枚かは被害に遭ったそうで、強風で水分が無くなり白穂の状態、つまり結実しない状態なのだそうです。
その他にも倒伏したり果樹農家では落果したり、スキー場では人工ゲレンデのマットと言いますか敷物が吹き飛んだなんて被害もありました。ひょっとして庭のアリンコも一匹どこか遠く北朝鮮あたりまで飛ばされたかも知れません。自然災害というのは恐ろしいものでございます。



風で傷んだ稲穂


丹精込めて作った作物も自然の猛威の前では一瞬にして壊滅することがあります。関東地方では秋の長雨で青果市場も青息吐息、ここは確実に値上がりすることになるのでしょう。でも無いものは買えない訳でして自衛のしようがありません。農業なんて職業はばくちの連続みたいなところもございます。特に野菜農家は心してかからないととても痛い目に会います。でも一作でも当たれば一年分の収入なんてのも夢ではありません。その辺のバランス感覚はトレーダーに近いのかも知れませんがね…

田んぼの草刈りをしていて感じることは、本当に体力が無くなったなと言うことであります。少し前だったら平気で一日仕事が出来ていたものが、今は半日やったらダウンと相成ります。先日も早朝から昼まで作業し、昼寝をしたらもう起き上がることが出来ませんでした。ふと目覚めると午後3時を回っている始末、後の祭りとはこのことでありまする。
先日行った一年ぶりの山行でも感じたことでもあります。登りでも下りでも空気を胸一杯吸うことが出来なくなった感じと申しましょうか、もしいっぱい吸ってしまったらゴム風船のようにパンと肺が破裂する恐怖感で一杯になりました。

もちろん足も動かなかったのですが、今まで味わったことのない苦痛が体の中に湧き上がってくるような感覚、上手く言葉で表せないのですが、稲川淳二が語る四谷怪談と番町皿屋敷と牡丹灯籠の競演、いやいやお岩、お菊、お露のお三方に、地獄の三丁目でお会いして口説かれましたような恐怖を感じた次第でありまする。いわゆる心肺能力の低下がもたらす機能障害とでも申しましょうか、酸素をうまく摂取できない為に、体中のあらゆる細胞が酸欠状態に陥りまして、まあ有り体に申せば高山病のような症状が出たものと思われる次第でございます。

虚弱体質とまでは行かなくとも、体が疲労疲弊致しますといたるところに障害が現れます。我が身を思い起こせば色々思い当たる節も多々ございます。月並みなものは痙攣ですかな、それを過ぎますと全身に蕁麻疹が現れることもございました。それも猛烈な痒みを伴いましてね…。 当然発熱もございますし虚脱感も表れます。ひどいときには幻聴、幻覚、目眩なんてのもひどくなるわけでございまして、もうこうなると、はい自分では手に負えません。お医者様のお世話になるわけでございますが、当然根本的治療など期待できる筈もございませんので、薬で散らすわけでありまする。

さてさてある日のこと、朝起きて体の節々が痛いと思い、もしやと思って体温計を引っ張り出して計測、案の定37℃の表示に納得であります。
若い頃は38℃を越えても平気で仕事することが出来ましたが、老域に達した現在では0.5℃高い微熱でも体が悲鳴を上げる始末、もうこうなると何も出来ません。腰を曲げながら足を引きずり歩く姿はどこから見ても立派な「おじいさん」でありまして、人々の賞賛を受けた次第であります。
体の調子が悪いときの恐怖感というものは、多くの場合正常な思考を阻害するものであります。このようなときに人は感化されやすくなるわけでございます。

おじいさんと言えば、先日某有名アーティストの公演情報が目に止まり、どうしても行きたくなりました。調べたらインターネットでしか目当てのチケットは入手出来ないアナウンスがありました。先行発売もないようなのでこれは一発勝負と思い某チケットぴあの画面の前で発売開始の時間を待ちました。時間前は何の不便もなくアクセス出来たのに時間と同時に「アクセスが集中しているため云々」のアナウンス画面が…
およそ30分粘りましてやっと繋がったと思ったら予定枚数終了の画面が…

ええ、結局入手出来なかったのですが、試しに○○○○チケットで検索すると、驚く無かれ約3倍の金額で販売されているのでした。発売開始からおよそ30分でですからね…
一体どんな手段で入手出来たのでしょう? これって明らかに転売目的での購入でしょうから、そう言う目的でのアルバイトにしたら相当割の良いものですよね。
昔からダフ屋なる商売があるのを存じておりましたが、現代では誰もがその気になりさえすれば、そのようなアルバイトが出来るようでございます。もちろんそのように高価なチケットは貧乏人にはいくら体調が悪くても買えるものではございません。
ええ、もちろん某有名アーティストも今では立派なおじいさんだと思われますがね…



我が家の庭先にニョキニョキと生えてきたキノコ
なんか知らんで食べたけど、なんていうキノコだろう?
ええ、幸いにも生きていますがね…(汗)


日々の生活は規則正しいものに超したことはございませんが、各々においてリズムと申しましょうか、あるいはテンポと申しましょうか、そう言ったものがあると存じます。それは次々とその日の課題を解決していくことが出来る人や出来ない人、一つの物事に対して腰を据えてじっくり向き合える人やすぐに飽きてしまう人、とにかく一所にじっとしているのが嫌で東奔西走素早く移動する人や、移動するにしても実にゆっくりとしたテンポの人、まあ人がいればそれと同じ数のそれぞれの行動パターンが存在致します。筆者が思いますに、それこそが人間社会の醍醐味と申しますか、ダイナミズムなのではないかと考える次第でございます。

それとは反対に自分の考えに同調しない人や、あからさまに反対する人に対して、時には異常なまでに過敏に反応する方がいらっしゃることもある意味周知でございます。どちらが正しくどちらが誤りであるなどと安易に判断することは出来ませんが、一つだけ言えることは、世の中というのは数限りない正と負の連合体であると言うことです。そうです磁石のようにプラスとマイナスは必然なのであります。個々の磁石は条件によって激しく反発し合うこともありますが、強く結びつくこともございます。

例えば野生の植物の世界では、ある種の群落の中に別の種が単独で生育することは希だと考えております。多くの場合はたとえ少数の種がその中で根付いても消滅することが多いと考えます。それらの種々は陣取り合戦のようなことを行いながらテリトリーを形成していくはずであります。そして生命力が強いものが生き残り、弱いものは衰退していきます。それらは自然の摂理でありまして、たとえ人為的な何かにより一時的に栄えても、長い目で見ればそのような行為はあまり意味のあることではないと考えます。しかしそれはあくまでも野生の植物の話でありまして、人為的な植生---農業---では少し違ってきます。

地上最高の知能を誇る我々人類は、遺伝子を操作する術を発見し古くから応用しております。それらの技術は植物に限ったことではなく、近年は動物にまで及んでいることは周知であります。でもそれらの行為の是非は歴史が将来判定することであって、個人的な意見は持っているにしろ、筆者一人がいくら騒ぎ立てたところで、すぐに然したる変化はございません。

農業と申します人的行為は、植物の生育をコントロールして人々の暮らしに恩恵を与えるものと考えています。世の中には色々な作物がございまして、それらを育成し収穫する事によって色々な副産物を生みます。人々は経済性をもってそれらをコントロールしているわけでございますが、農業の究極の目的は、継続的生産による民の飢餓防止にあることは明白であります。そこのところを飽食状態にあると錯覚している国家の民は忘れているのではないかと危惧しておるところでございます。

世界の国々では様々な課題が今も昔も山積し、多くの人たちがその克服にそれぞれの立場で懸命の努力をしている事に異存はございませんが、我が故郷の景色を神々の領域(山岳地帯)から俯瞰した場合、確かに太古からの自然の植生も残っている場所もございますが、その多くは人為的に作られたものだと思われます。我が故郷に限って申せばその多くは田園でございます。美しく感じる田園風景の多くの要素は人為的によって維持されており、人々の暮らしが変わらぬ限り、そう多くの変貌には至らないと考えますが、植物の視点で俯瞰するとき、何故か遠からぬ未来を暗示しているように感じる事がございます。

考えますに植物も動物も人間も、大いなる時空の中では根源的にそんなに違わないものかな、とも思えてくる今日この頃でございます。つまるところ、この世の物事は目に見えない糸で全て繋がっているのでありまする。そういう風に考えると、何かにつけ齷齪するのがホントにアホらしく思えて来るのでございます。
そうは言いながら稲刈りが …(汗)


やれやれ